日本生活教育連盟第68回夏季全国研究集会京都・滋賀集会2016基調報告案  『生活教育』2016年8月号掲載pp.68-76 20160711up
世代をつなぎ、他者とつながり、希望を紡ぐ−生きづらい時代をともに乗り越える−
日本生活教育連盟研究部

1. 子どもから離され、忙しさの中で初心を潰されてゆく
 まずは、就任2年目となる教師からの叫びに耳を傾けたい。
 「学級通信を作っていると『自分の学級のことは後、学校全体のことが先』と先輩から教えて頂いた。良かれと思って作った資料が、やっぱり従来どおりが良いと作り直しになった。なんでだろう・・・。気がつくと二一時、二二時。いつの間にか、本来やるべき教材研究や学級の準備が後回しになっていった。いつの間にか、『この子たちのために』が、『先輩方に認められたい・早く終わらせたい・ほめられたい』に変わっていた。私は完全に担任としての自分を見失った。仕事を振るにもどうすれば良いのか、どこまでやればいいのか、分からなかった。
 不思議なもので担任が不安定だと学級でも小さなトラブル、けがが増えた。ついには新たに登校しぶりの子もでて、五月には迎えに行ったり、保護者の対応に追われている。
 今年担任している学級は四年生。たった二一名しかいないのに、入学した時から今までの集合写真では、いかに教師が介入しようとも、全員がそろって前を向くことが一度もなかったくらい元気と個性に満ち溢れた『学校史上伝説の学級』である。
 正直不安だった。この子たちと、どこに向かって一緒に進もうか。手の平から見事すぎるほど飛び出していってくれる子たちと、しっかり向き合っていけるか。楽しみでもあったが、去年が低学年だったことや教科数もぐっと増えることもあり、不安の方が大きかった。」(D・T「常に挑戦すること」『生活教育』一五年八月号、七七頁)
 子どもの声に心を寄せて学級づくりに心を砕く。これぞ多くの教師が抱く初心であろう。初心に反して子どもから引き離され、トラブル処理に追われる。初心を見失い、やりがいを見いだせなくなり、職場で守られずに一人で悩みを抱え続れば抑うつ状態に陥る。こうした負のスパイラルに陥り、辞めていく教師が少なくない。離職の理由として「病気のため」とした者が一七七〇人いたが、そのうち「精神疾患のため」とした者が九二五人で、じつに五二%を占めた(文科省「平成二五年度学校教員統計調査」より)。
 雑務と要務がひとつながりになることで仕事の達成感が生まれる。教師の仕事の要務は子どもを見ることである。雑務に追われて子どもを見る眼を養う機会を奪われてしまう、という厳しい現実がある。私たちは、こうした現実といかに向き合い、局面を打開する道をどう見いだせばよいのだろうか。

2. 準備教育と対峙する「今を生きる教育」
 生活教育は準備教育と対峙してきた。準備教育と対峙することによって、今を生きる教育を実体化させてきた。準備教育とは、いわば手段としての教育であって、子どもがどうしても知りたいこと、今を逃しては体験できないことを棚上げにする教育である。例えば、上級学校への進学や就職のためにといったもっともらしい理由のみを動機にして、子どもたちに不本意な勉強や無為な訓練を強いる。それなりの結果を成就させた子どもは報われるが、そうでない子どもは表舞台から撤退し、自己責任の名の下に沈黙させられる。子どもたちは、何のために学ぶのかがわからなくなり、正解を探しだして教師や大人の設問に応えることが学習だと錯覚する。正解が分からない時には適当にやり過ごすことを覚える。そして、世界や未来に絶望する。
 学校全体のことが先で、教材研究や学級づくりは後回しに。冒頭にあげた若い教師の叫びからは、準備教育に染まっていく自分への焦りと、何とかして抗いたいともがく姿とが見て取れる。生活教育は、一貫して子どもの自由・平等・個性的発達を教育の場で現実化させる道を探究してきた。戦争とテロが地球的規模で広がり、自然災害や放射能汚染への危機にさらされ、競争主義による格差拡大と精神の破壊が進行する今日、私たちは、そうした事実を是認した先に描かれる「未来」社会にも、準備教育にも与することはしない。未来の主人公である子どもや保護者や同僚との対話を深めながら、生きづらさを乗り越えて今を生きる教育をこそ現実化させたい。私たちが大切にしてきた五つの原則を示しておく。世直しを担う人間への育ちを展望しながら、子どもや大人の自由・平等・個性的発達を現実化させる実践研究を積み重ねていきたい。
  (1) 子どもを発達現実態と見て、人間にふさわしい発達をめざす。
  (2)「できる」ことだけを求めず、子どもの内面の育ちを大切にする。
  (3)子どもの問題行動を共感的に受けとめ、学び直しと出会い直しによって子どもと大人の双方が育つ可能性を探る。
  (4)五感を駆使して、ひと・もの・ことと直接に関わる学びを大切にする。
  (5)家庭・地域・世界における親密圏の生活を充実させる諸活動に参画し、教育を地域に根づかせる。
 (日生連『子どもの生活をひらく教育;戦後生活教育運動の四〇年』学文社、一九八八年をもとに、それ以降の実践研究の蓄積を試論的に追加した。)

3. 教育の自由と自治;目的と内容と方法の統一を求めて
 生活教育は、目的と内容と方法の統一を一貫して追究してきた。授業目標は、上や外から押しつけられるのではなく、目の前の子どもと交わり、子どもの生活をじっくりと観察した上で設定する。授業目標にもとづき、よく吟味された内容と方法をもって授業が行われる。授業の当否は、実践報告や実践記録として表現され、研究討議に付される。前提に置かれた教育目的の正しさが改めて確認され、広く共有される。
 だからこそ生活教育は、教育の自由と自治を大切にしてきた。実践においても、実践を支える環境・制度においても、教育の自由と自治があってこそ、目的と内容と方法の統一は可能となり、実践記録となって継承されていく。目的と内容と方法の統一は、いわば公共の福祉の実現し、共有財産としての教育文化を生み出すしかけである。
 今、学校現場では、〇〇スタンダードの名の下で、授業目標と教材と教授法と評価方法のパッケージが上から押しつけられるという試練に直面している。私たちは、「原則は明確に、実践は多様に」を合い言葉にして、子どもの生活現実と魅力ある教材と必然性のある教授法を対置して、スタンダードの再解釈と組み替えをしたたかに試みている。
(1) つながりから生まれる能動的学習
 アクティブ・ラーニングとは、「能動的な学修参加を取り入れた教授・学習方法」(中教審答申「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて」二〇一二年)である。大学教育の改革政策に端を発したアクティブ・ラーニングが、小・中・高等学校に導入された。しかし私たちはすでに、つながりから生まれる能動的学習を十分に蓄積してきた。一例をあげる。
 カーケー博士と魅力的なキャラクターが「?の手紙」を持ってくる。これを解き明かして、振り返りを書くと、次の時間にはその振り返りと博士からの手紙が通信となって送られてくる。23×3から18×4、そして78×2×5へと、筆算の学習は個別学習と一斉授業を経て、お買い物ごっこと設問づくりへと展開する中で豊かな討議と交流を生み出し、子どもと教師の喜怒哀楽を包み込んだ新たなつながりを創りだした。教師は、カケカケ王国物語の探検を共に楽しみながら、子どもが一歩踏み出すための勇気を振るう手助けをした。
 松村さんは、「正解主義の授業をしてしまうと、子どもは自信を失ってしまう」と懸念する。理解のゆっくりな子が「分からない」「ここまでこう思ったよ」「分かったよ」など 「自分の素直な思いを出し合い、そこから学び、自分に自信がもてたり、友だちのことを認めたり、算数を学ぶ楽しさを感じたりできるようになったらいい」と考えた。実践を通じて、「三三人の一人ひとりにこのストーリーのドラマがあり、成長があったように思う」と言い切っている。
 すべての子どもが学習の主人公となり得る。つながりから生まれた本物の学びの真骨頂がここにある。彼らが高学年になれば、より切実で現実的な問題にあてはめて数学の魅力を探究することになるだろう。私たちは、グローバル人材としての能動性とは異なり、活動的な主権者が多様な方法で平和な世界を築くという社会像を描くことができる。(松村綾佳「友と共に、自己肯定感が高まる算数の授業を目指して;3年『かけ算の筆算』の学習」『生活教育』一六年五月号)
(2)ともに考え納得し動き出す道徳
 特別の教科としての道徳が二〇一八年度から始まる。専門免許を設けず、検定教科書を使い、記述で評価をする。戦前の修身が廃止され、思想及び良心の自由を侵したことへの反省から、学校教育全体を通じて行う道徳となり、さらに特設道徳の時間における補充・深化・統合が図られてきた。道徳の教科化はこれまでの歩みを大転換する。そもそも、教科化する理由に問題があった。いじめなど子どもの問題行動が増加したが、それは規範意識の未成熟に起因するもので、特設道徳の時間を軽視してきたツケだと決めつけたのである。子どもと家庭、教師一人ひとりに困難への責任を押し被せていた。思想及び良心の自由を侵しかねない重大さについて、確信犯的に無頓着であった。
 いじめられる、いじめる、傍観する。いじめにまつわる三つの立場のすべてを、多くの子どもたちが経験している。そもそもいじめを規範で押さえ込むという発想が無理筋の議論だと分かる。道徳は学校教育全体を通じて行うことが大原則である。ゆえに特設道徳の時間を柔軟に運用してきたのであって、私たちは決して道徳を軽視してきたわけではない。ある教室での出来事を見てみよう。
 「『私はいきもの係以外はやりたくない!』と言ったMさんは、じゃんけんで負けてしまったことに納得できず、自らの主張を譲ろうとはしませんでした。クラスでどうしたらよいか尋ねると、『他の係に入って、いきもの係の仕事をしたらいい』『負けたのだから仕方ないのでは』と意見が上がりました。数日後、『他の係をお試しでやってみるのはどうか』とMさんに提案したところ、『私はミニ歌声係をやりたい』と言い、活動し始めたのでした。説得ではなく納得して、意欲が湧き、動き始めるのです。」
 そして、担任教師はこう結んでいる。「『民主主義とは何か』という問いの裏側には、明日への希望の種が詰まっているような気がします」(中村潤「若手教師が希望を紡ぐ;民主主義こそ明日への希望」『生活教育』一六年四月号、七六頁)。日常生活で絶え間なく生起するトラブルは道徳教育の好機である。トラブルに直面した時、子どもを押さえ込むのではなく、子どもが納得して、意欲が湧いて、動き始めること、すなわち「民主主義とは何か」をともに考え、突き詰めることでしか道徳教育は始まらないのである。そしてこの先に、規則体系(善と悪、罪と罰、公と私など)の探究が位置づく。
 規範を並べて1時間の目標を定め、方法と評価法がパッケージ化された道徳の授業が上から押しつけられれば、いじめは潜伏化しトラブルは拡大するだろう。記述する評価内容が上から目線であれば、結論は決まっているのだと子どもに見抜かれ、考えて議論することは虚しい営みとなってしまうに違いない。考え議論する渦に教師や大人も組み込まれる視点こそが大切となる。
 春日井さんは述べている。「教師と子どもの相互関係のなかで、子どもは自己決定プロセスを重ね、教師は自己変容プロセスを重ね、そのなかから教育実践における当事者としての主体性が双方に形成されていく」(春日井之「自治的活動と子ども・教師の成長;日常生活における自己決定の積み重ね」『生活教育』一五年九月、五六頁)。子どもと教師のそれぞれにとってかけがえない自己決定と自己変容、それらの折り合いと統合の中にこそ成長がある。自治的活動とは、そうした内実を備えた活動なのである。
(3)子どもを発達現実態としてみる
 発達上の困難を持つ子どもは1学級に6名以上いる。障害を連続する境界としてとらえ、「程度の差と見る」スペクトラムという概念が重要である。発達障害への理解を深める埼玉サークル主催の講演会には多くの参加者が集った(奥住秀之「発達障害のある子どもの理解と活動づくり」『生活教育』一六年一月号)。いっぽうで、発達障害への理解を深める世論とはうらはらに、困難を抱える子どもが普通学級から特別支援学級・学校に押し出されるという悩ましい潮流がある。学習権保障といえるのか、安易な学級内の秩序維持ではないのかと、疑われるケースが少なくない。私たちは、「困った子は困ってる子」であり、子どもは発達現実態であるという立場から、インクルーシブな実践を積み重ねてきた。
 視線が合いにくく、手遊びが止まない。座席に近づくと下を向いて固まる。トラブルメーカーと見られがちなユウキ。視線が合ったときに出すピースサインだけがコミュニケーションの糸口となっていた。そんなユウキと周りの子どもたちには、現在の状況から順番にさかのぼって話を聞いていくことが大切だと考えた。粘り強い実践によって、やがてユウキは「さっきはごめんね」と謝れるようになった。ケンタへのこだわりも影を潜めていった。
 原田さんは、自らが大切にしてきたことを次のようにまとめている。(1)問題行動を発達要求ととらえる教師のまなざし、(2)学で出番をつくる、(3)その子を学級の中に位置づけ、認め合う、(4)父母のねがいを深くとらえる、(5)学校全体の協力体制をつくる。(原田宏美「子ども・親の願いを読み解き、授業で出番をつくる;通常学級の中で大切にしてきたこと」『生活教育』一六年一月号)
 ここで述べられていることは、発達支援を要する子どもはもちろんのこと、「困った子は困ってる子」の居るあらゆる学級で共有できる方針である。発達支援の視線と手立ては、すべての子どもに向けられなければならない。
(4)地域の人々とともに歩むチーム学校
 学校の組織力向上と地域連携を強化した学校運営の推進を答申に盛り込んだ「チーム学校」が文科省から提起されている(中央教育審議会「チームとしての学校の在り方と今後の改善方策について」二〇一五年一二月二一日) 答申によれば、「チーム学校」を実現する3つの視点として、「専門性に基づくチーム体制の構築」「学校マネジメント機能の強化」「教員一人一人が発揮できる環境の整備」があげられている。さらに、チームの構成として、教職員間のチーム、保護者・地域等とのチーム、専門職連携のチームという三つの例が想定されている。三つのチーム構成例についていえば、私たちはすでに豊かな実践を視野に収めている。
 子ども嫌いだったという二児の娘の父親は、五年間の学童保育父母会活動に関わり、学童保育の質を守るための陳情活動からPTA活動にも携わっていく。中学校ではPTA役員として放課後カフェという中学生の居場所にコミットしていった。子どもの成長に合わせた父親の成長記録が私たちの励みとなっている(三井正勝「子どもの成長と共に父親も育つ」『生活教育』一六年二月号)。
 京都府伊根町は、一八歳までの子ども医療費は無料、小中学校の諸経費は無料、修学旅行費は全額補助、給食費の無料を実行している町である。給食費無料の舞台裏では、ひと・もの・ことの豊かなつながりが世代を超えて形成されてきた。「子どもたちのために知恵を出し、労力を出し、そしてできることは何かを考え生み出そうとしている姿勢の中から、『日本一』の給食を作っているという自覚と誇りが生まれて」きたのである(浦島清一「『日本一』の給食を支える人たち」『生活教育』一六年六月号)。
 私たちの実践は、地域の人々の熱意溢れる連帯という土壌の上でこそ開花をする。また、住民とともに実践を試行することによって地域の土壌を耕そうともしてきた(例えば、佐藤方信「放射線と、放射線教育を通して生きることに向き合う」『生活教育』一六年七月号)。チーム学校と私たちの実践における構えとの違いは、学校のために地域がある(準備教育としての、手段としての地域)のではなく、一人ひとりの暮らしと確かな成長発達に即して学校があるという点にある。

4. 生きづらい時代をともに乗り越える;日本生活教育連盟70周年に向けて
 一人ひとりが実感でき、かつ私たちが共有できる生きづらさとは、心身の再統合に向けた青年期特有の現象であると同時に、世界に不具合が生じて社会の再編成へと向かっている証しともいえる。生きづらい時代をともに乗り越えるために、京都・滋賀集会では、テーマである「世代をつなぎ、他者とつながり、希望を紡ぐ」への手応えを得られる機会としたい。日本生活教育連盟は、二〇一八年一〇月に結成七〇周年を迎える。本集会を、実践と研究の成果を積極的に外部へ発信する機会であるとともに、謙虚に内省し自己点検を深める機会と位置づけたい。まずは、各分科会と地域サークルにおいて、本基調報告案の検討から始めたい。
 昨年度の東京集会では、日本生活教育連盟の声明「子どもたちから青空と太陽と未来を奪う『戦争法案』を許さない」を決議した(『生活教育』一五年一〇月号に掲載)。第一に、戦争は、子どもから青空と太陽と未来を奪う「絶対悪」であること、第二に、戦争法案は、「いのちと平和」を希求する生活教育の理念に背く法案であることを理由に廃案を求めた。
 「戦争法」はとりあえず可決したが、声明はなおも生き続けている。なぜならば、現政権による、日本国憲法の平和主義・国民主権・基本的人権への破壊を食い止める際の理論武装となっているからである(『生活教育』連載「学校に平和の文化を;憲法と民主主義」)。生活教育の今日的意義について、デューイ研究者の加藤さんは次のように述べている。「デューイと照らせば、いろいろな〈かべ〉をこえて、〈つながる〉ことを重視している生活教育は、その全体が民主主義なのだと言えるし、民主主義とは、生活教育の一つひとつの実践だと言ってよいでしょう」(加藤聡一「生活教育eye;民主主義と教育」『生活教育』一六年三月号、六三頁)。私たちが育まれ、育んできた民主主義の真価が、今試されている。
 戦争の記憶、大震災の記憶を受け継ぐことは、世代をつなぐことであり、命と尊厳を継承することでもある(『生活教育』一五年一一月号及び一六年七月号参照)。教育や子育てを通じて手にした知恵とワザに、私たちは誇りをもって継承していきたい(『生活教育』連載「人とつながり世界に広がるパネルシアター」ほか)。
 貧困・排除・孤立という生きづらさの連鎖から脱するために、他者とつながる実践を創造したい。学童保育やフリースクールや子ども食堂や放課後カフェで見せる子どもの顔は学校での顔とは違う。どちらかが偽物ではなく、どちらの表情もホンモノという見方でつながりたい(『生活教育』リレー連載「放課後の子ども」)。自利と利他を発揮できる時間として余暇が重視され、第二・第三の人生枠が広がっている今だからこそ、意味ある他者との出会いが開ける(『生活教育』親がつくる親のページ「おや・おや」)。
 つながりを深め広げることから未来への希望を描きだしたい。学校のカリキュラムは、地域や世界とつながっている。想像力をたくましく発揮しさえできれば、子どもと大人が育ちあい、乳幼児と大学生の発達課題がつながり、自分と地域と日本と世界を串刺しにする「自分のことば」を手中にできるだろう。
 『生活教育』を読みあい語りあいつながること、それぞれの現場で何かを試してみること、自らの実践を表現し課題を意識化すること、実践記録を書き仲間の評価を受けること、活字に残して後に継いでいくこと。地域と世代を超えた多様でしなやかなネットワークの中で、こうした自主自立のサイクルを確立できれば、おのずと機関誌『生活教育』は持続するだろう。


 【本基調報告案は、二〇一六年一月五日冬の研究集会時に骨子案が提案され、これ以降は常任委員会や研究部会において断続的に討議を重ねられてきた。本提案の掲載に際して、基調報告案の起草プロセスや取り扱いについて、改めて検討の余地があることを付言しておきたい。】

20160711up
20160805 修正: 敏之 学習