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日本生活教育連盟 第63回夏季全国集会 愛知大会

 2011基調報告(案)

 ほんとうは資源のある日本で資源を活かした生活教育を
  -《ひとつながり》の〈教育実践と教育課程と地域計画〉を構想して実現への一歩をふみだそう-


日本生活教育連盟 研究部

※ 『生活教育』2011年8月号、88-93ページ。

※発表後追記:「オーダーメイド」については、「レディーメイド」の対として考えましたが、誰かにオーダーしてつくってもらう意味ではなく、自分たちにあわせて自分たちでつくる「自前」の意味です。その意味では「ハンドメイド」の方がよいかもしれません。「オーダー」を残して考えるなら、子ども・生徒たちの声をオーダーとして教職員集団が受けて教育課程を編成する、ということでしょうか。また、「資源」が唐突に感じるという議論がありました。新しい提起ではありましたが、2010年基調報告案を読んだ上で、全体を、〈1→5→6→3→4→2→7〉の章の順番で読み直していただくと展開がわかりやすいかと思います。(20120704up)


1 今どこにいるか
 昨年2010年の基調報告(案)では、1つ1つの実践をよく読み検討しあって、いくつかの実践に共通する深い意味をくみとり、《つながり》からさらに進んで《ひとつながり》のことを発見し、またそれを実現していくことを提起しました(『生活教育』版(2010年8月号、90〜95ページ)とHP版 http://nisseiren.jp/2010osaka/2010kityou.html 
があるので、あらためて読み直していただけると昨年からのつながりがわかりやすい)。
 昨年、川合章・元日生連委員長が亡くなりました(『生活教育』7月号が追悼号)。川合氏が提起した「原則は明確に、実践は多様に」との基本を思い起こせば、昨年の基調報告(案)は、それまで蓄積してきた多様な実践から《ひとつながり》の原則を再発見・再確認しようという提起でもあったのです。
 今年の基調報告(案)ではこの方向を共有しつつ、この1年の情勢も踏まえながら、今の課題を提起してみます。
 今回の集会の研究主題は「子どもを再発見する「わたし」との出会い直し〜原則は明確に、実践は多様に」ですが、子どもの発達とは、子どもの生活現実の発達であり、また、その生活現実とは、「主体(子ども)と客体(外界)の相互作用だ」ととらえれば、「どういう客体と相互作用しているか」見ることが子どもの《再発見》にもなります。この基調報告(案)では、外界の面から子どもの再発見に近づきたいと思います。
 この1年でいえば、民主党政権が迷走をはじめたこと、そして3月11日の東日本大震災が大きな出来事だったといえるでしょう。そんな中、この4月より小学校で新しい『学習指導要領』の全面実施に入り、来年度以降中学校などでも全面実施されていきます。今は、「フクシマ」の原子力発電所の問題もあわさって、今の日本のあり方、日常生活が、根本から、これでよかったのかと問われ、また、東日本の復興だけでなく日本全体をどう再生していくのか、そしてそれにつながる教育のあり方はどうあるべきなのかが日々問われている状況にあるといえます。
 結論を先に述べると、日本国憲法や教育基本法(1947年)がめざした社会や教育の原則に立ち返り、これまでそれがどこまで実現し何が桎梏(しっこく)となっていたかの教訓を明らかにして、今日的に構想しなおすことです。生活教育でいうと、今までの方向はその方向と一致しており、今求められることは、この方向(原則)を再確認・再発見し、生活教育をさらに広げていくことです。これは生活教育の意味を今日的に深め、再発見し出会い直していくことでもあるでしょう。

2 「資源がない」論の克服
 中心的な課題のひとつは、日本の国は「資源がない」論を克服して、私たちで「資源はある」論をつくることです。日本の国は「資源がない」論は、いろいろな問題の根底にある、批判し克服すべき「論」ではないでしょうか。ほんとうは存在する地域固有の資源を〈ないもの〉として活用しなくなると同時に、グローバリゼーションの中で、国内地場産業を破壊し、外需(外国との貿易)に極端に依存する産業社会を生み出してきてしまいました。外需への極端な依存は、諸外国との熾烈な競争に巻き込まれ、国内の職業の配置や比率を不規則に変動させます(農林水産業は不規則に減少)。これが非正規雇用の労働流動化や失業の問題、貧困や格差問題の大元にあります。原子力への依存も、エネルギーをめぐっての「資源がない」論が大前提としてありました。ふりかえってみると、戦争推進の最大の論拠もこの「資源がない」論で、資源獲得のための海外進出・侵略を推し進めて行ったのです。
 日本の国策として近代以降推進されてきた学校教育も、この「資源がない」論が大前提としてあります。「資源がない」から「人材」の育成・選抜に過度の力点が置かれる教育が推進され、これが「競争」を激化させてきました。「人材」は首都圏に集中し、「地方」がそれを「供給」する構造になっています。学校でいわば〈村を棄てる学力〉をつけて、地域から遊離していったのです。
 人間は、外界に能動的に働きかけ、外界を変え、それによって自分自身を発達させます。これは労働や生産に発展します。貧しい自然・環境が対象では、人間の発達や労働がゆがみ、破壊されていきます(疎外)。資源は、自然・環境・文化の一部ですから、「資源がない」論は、人間不在論と裏表の関係にもなります。
 なお、資源の活用というと、利潤追求が強く連想される場合もあるので、「人間発達と両立する資源活用」とか「地域財」などという言い方が正確かもしれませんが、このことも含めてみんなで議論していきましょう。

3 生活教育での資源再発見
 生活教育実践を「資源はある」論の目で見直してみると、これまで、主として子どもたちの興味や関心の対象の面から、学校や教室に持ち込まれてきた、あるいはつながりをはかってきた〈地域にあった教材、学習材〉といったものを資源として再発見することができるでしょう。
 小学校1年生の文字指導で「○のつくもの」を教室に持ってくることは生活教育実践の定番ともなりつつあります。教室に持ち込んでくるものには、地域や家庭に存在している資源(地域の宝)が含まれます。それに光をあてることが資源活用の第一歩になるでしょう。「いと」「わた」「だいこん」などが特産品(地域の宝)とのつながりとして教室に持ち込まれていることになります。また、「春見つけ」などから、教室に植物や動物を持ち込み、それを育てる実践も、学校の中に、田んぼや畑、海など、〈資源を活かす場所〉を再現することになっています。校内に田んぼがつくれない場合でも、近くの田んぼにアクセスすることは、空間的には持ち込んでいるわけではなくとも、学校の教育活動に資源を持ち込んでいることになります。子どもたちの熱中・専心しているものが資源として発見されることもあるかもしれません。
 普遍的に存在する空気、水、土なども、その活用のしかたには、文化が介在するので、地域の個性があらわれてくるでしょう。
 ここでの取り組みは、雛形ではあっても〈地域の生産活動〉の一部を担った活動になっていることが再発見できます。生活教育実践で取り上げられてきた大蔵大根、アセロラなどは、その地域の資源であることが確認できます。これが「地域に根ざす」ことです。

4 教育課程を地域再生計画につなげる
 小泉構造改革は、「地方」を疲弊させました。そのまま崩壊していくのを食い止めようと、多くの地域で地域再生の運動がはじまりました。追い詰められたところからの必死の出発が各地でありました。この特徴は、地域の資源(地域の宝)を足元で再発見し、それを人と人のつながり(生産を含んだ住民自治運動)で産業化して村おこし・まちおこしにつなげていることです。
 この地域再生運動は、今、後継者を育てなければいけない段階に来ているものが増えています。学校での生活教育の実践とまさしくつながろうとする必然性が生じています。
 学校の教育課程は、ほんらい、地域計画の一部であるはずです。どうしてそれらがつながらないのかの根本が、「資源がない」論です。教育課程から地域の資源を排除していけば、学校は地域の個性とは関係のないただの「人材育成の場」となり、そこで「選抜」された人は地域から離れていってしまうとしたら、地域計画との連続などは原理的に困難になります。
 「資源はある」論が学校と地域を連続させる要です。学校でも「地域の宝」の発掘が必要で、これが「地域に根ざす」運動です。

5 レディーメイドの教育課程の危険と限界
 全面実施にうつってきている『学習指導要領』と教科書の問題点は、『生活教育』4月号の特集「子どもが出会う新しい教科書-私たちはこう読み解く」で検討されています。
 質的にも量的にも盛りだくさんで、『学習指導要領』の文言のレベルでは、相当創造的な授業や教育活動をすること、教育課程を編成することが可能だとも読めます。しかし問題は、「共通最小限度(ナショナルミニマム)」のものがすでに子ども・生徒たちの負担の限界にきていることです。そして、教育課程の実施状況について、事後に細かく、場合によっては厳しく評価がかけられることから、教師の負担も相当なものになっています。
 もっとも危惧されるのは、忙しくて時間がないことから、教育委員会がモデルとしてつくったり、教科書会社がつくったりした年間指導計画(あるのです!)や個々の単元指導計画、場合によっては一時間の指導案までを、コピー&ペーストでほとんどそのまま使ってしまうことです。こういうレディーメイド(安価で画一的に大量生産されるもの)の教育課程があちこちで実施されてしまうことには大きな懸念があります。
 このレディーメイド教育の限界は、子ども・生徒たちの反応を抑えざるを得ないことです。子ども・生徒から質問や疑問が出た際、少しでも時間をかければ、その一時間が指導案どおりに終わらず、年間指導計画を狂わせるので、子ども・生徒たちの声にこたえることができなくなっていってしまいます。
 子どもや生徒たちの声を聞かないで、日々の授業を何週間もすすめていくことは教師の存在意義にかかわる苦痛です。出発はレディーメイドの教育課程からだったとしても、子ども・生徒たちの声にこたえていくなかで、アクセサリーをつけたり着くずしたりするように、少し味付けを変えるところからはじまって、やがては、オーダーメイドの教育課程をつくっていくことにつながるでしょう。
 若い教師が教科書会社や教育委員会などの作成した指導計画で授業した場合でも、丁寧に記録をとって生徒の声を仲間の教師といっしょに発見することは、教育の自由を取り戻し、生活教育の実践と出会い直す確かなはじまりとなるでしょう。

6 〈教育課程〉群をまず想像のリレーでつくる
 地域を再生するには、学校教育全体の教育活動で、すなわち資源を源泉にして、個々の単元(かけら)を有機的に組織して教育課程を構想し、子ども・生徒たちとともに実施していくことが大切です(カリキュラムの基本問題……コア・カリキュラム連盟以来の日生連の主要課題だったはず)。画一的でしかも内部がバラバラな地域計画が無意味なように、画一的でしかも内部がバラバラな教育課程は子どもの人格の統一を疎外します。
 そうは言っても、教職員集団で教育課程を編成していくことは大変な作業です。まずできるところからはじめるしかありません。自分がやれたことを、別の誰か、それは、同僚の場合もあるし、その後生徒がすすむ学校の教師である場合もあるし、地域活動を担っている人である場合もあるでしょう。同僚でない場合は面識すらないかもしれません。しかし、自分のやった単元をリレーして引き継ぎ、受け取ってくれることを想像して、今足元の現実をつくることが重要です。
 大学の教職課程で、学生が何年も前に受けた生活科などの実践をあらためて意味づけなおし、再発見することは、それを実践した教師からのバトンを受け取ったことになり、さらに、「資源はある」論を通じて、未来の地域活動とのつながりを考えることは、地域活動を担っている人にリレーしようとしていることになります。〈バトン〉は子ども・生徒の中に発見できるのです。
 この想像上のつながりを現実のつながりにしていくことがその次の段階での課題です。

7 研究課題(学習課題)
 菅政権が締結しようとしているTPP(Trans-Pacific Partnership 環太平洋戦略的経済連携協定)は「第三の開国」ともよばれ、いっそうの外需依存になる危険があります。私たちは、日本のあり方、日本の教育のあり方を、開国と明治維新、敗戦と日本国憲法、そして現在をひとつながりのものとして研究しなおす必要があるでしょう。
 東日本の復興を、地域資源の再発見とそれを軸にした地方自治・教育によってすすめるのか、これまでのように、震災前よりもよりいっそう強力な「中央」従属の利権の場として「開発」されてしまうのかは、日本全体の今後のあり方を決めていくことになるでしょう。
 生活教育実践の再発見を通して、さらなる教育再生のひろがりをつくっていきましょう。


2011.7.16 7.25『生活教育』掲載